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フェアリーテ・マチルダ セラピスト 佐藤磨知子です。
ここでは、今だから笑って話せる過去のお話、そしてなぜこのサロンの開業に至ったのかをお話させてください。
私は、ここ北九州市で、両親のもと長女として生まれました。私は子供の頃に褒められた記憶がありません。物心がついた頃には母親は妹ばかりを可愛がり、私は幼い頃からずっと疎外感と劣等感を憶えながら育ちました。
粗相をすると毎日のように罰として、幼稚園や小学校から帰るとトイレに閉じ込められる日々。掛け算ができないとベルトで叩かれたり、ハサミで髪の毛を切られるなど、暴力で無理やり勉強させられることも多くありました。私は恐怖のあまり、ますます計算が出来なくなり、それがさらに母の怒りを助長させました。
私の泣いている姿を見て、「陰気で暗い子やね…まるで落ち武者みたい」と笑いました。母の残したそんな数々の言葉…鮮烈に記憶に刻まれ、一生消えることのない深い傷となり、その後の私の人生を支配していきました。
そのことが私の人生にとって大きなトラウマとなります。私は恐怖と体罰で勉強はおろか、自分に自信がなく、人と話すことや自分の気持ちを伝えることも普通にできないような子供になりました。
そんな私に追い打ちをかけるように、ご近所の大人たちからも「あの子は陰気で暗い子やね」という言葉が耳に入り、ますます人が怖くなりました。
そのためか、学校では誰とも会話ができず、友達もいない…、楽しい世界を見せてくれる本だけが私の友達でした。
のちに大人になってわかったのは、私は『選択制緘黙』という自閉症だったということでした。言語能力があるにも関わらず、極度の恐怖心と緊張感から、普通に会話することすらできず、人との関わりを避けてしまう病気です。
世界から孤立し、孤独と恐怖で押し潰されそうな毎日。周りの子供たちのように出来ない私は、ここでも疎外感と恐怖を感じ心の中で「このままではだめになる!!」子供心にそう思ったのでした。「自分で変わろうとしなければ、だれも助けてくれない…」
小学校5年生になった頃周りに馴染めず、学校の勉強にも全くついていけなかった私は、「健常者としての進路は難しいのではないか…」そんな話が学校側と親との間で交わされていたのを薄々感じ取っていました。
「このままでは私、本当にダメになる…」
「変われるよう頑張ってみよう!」
そう強く感じたのを覚えています。
そこから、少しずつ自分を変える努力をはじめました。なんとか、みんなと一緒の普通の中学校に上がった私。中学から、みんな一斉にスタートする科目「英語」にチャンスを見出し、その科目に懸けることにしたのです。通知表はすべて1か2の評価ばかり…。だけど頑張った結果、英語だけは5の最高評価を得られるほどになったのです。
「こんな私でもやればできるんだ!」
はじめて自分に少し、自信が持てた瞬間でした。
とはいえ、基本的な人格は変わりません。中学でも目立たない子。いるかいないかわからない子。特に派閥の激しい女子中学生。ある日からいじめの対象になり、突然グループから完全シカト状態の日々。それが卒業するまで続き、辛い日々を過ごしました。
しかし、英語の成績の一件以来、私の内側は少し変化していました。洋楽や好きなバンドに夢中になったり、自分なりの楽しみ方を見つけていきました。不器用ながらも 生きる強さを育んでいったのだと思います。
家は経済的なゆとりがなくお金のことで両親の喧嘩は絶えませんでした。小学校6年から、自分に必要なお金は新聞配達で稼ぐようになりました。
中学卒業後、貧乏だった家庭に大学への進学という道はなく、「早く就職して!」と願う親の希望に沿い、商業高校に進学。そして、アルバイトに明け暮れる日々でした。お金の問題で母は父との争いが絶えず、外に働きに出るようになった母は、職場の人とパチンコや麻雀などの悪い遊びを覚え、明け方まで帰らず家庭環境はますます悪化。
そして、妹は家出。私は殺伐とした家庭が面白くなくて、ぬくもりを外に求めて同じような寂しい子たちが集まる場所に頻繁に行くようになりました。世間からは、いわゆるグレて夜中徘徊する、不良というレッテルが貼られました。
同じ場所に来ていた男性の中の一人とお付き合いするようになりましたが幼かった私は相手の本質を見極める目を持っていませんでした。就職して1年半ほどで妊娠が発覚。宿った命を無いことにはできないと思い、それを機に結婚しました。
義母は悪い人ではありませんでしたが、子供が出来てからは、孫に会いにほぼ毎日連絡なしでやってきました。それも必ず姑の妹達も引き連れて。それがずっと続くと、いつやってくるかわからずゆっくり休めないストレス、どこかに出かけていても、「会いに行ったのにいなかった」と嫌ごとをいわれるストレス、義母だけでなく、姉妹数人で押しかけてくることがストレスになり 若気の至りで上手く対処できなかった私は自律神経を病んでしまい、微熱が続き、動悸がして、ふらついて歩けなくなり、入院することになりました。
それから義母を避けるようになり、関係が悪くなりました。それでも、2人の子供を授かり、幸せな結婚生活を送ることを夢見ていましたが、イケメンの旦那は家庭的な人ではありませんでした。子育てにも協力的ではなく、女性の影もチラホラ…。挙げ句の果てには独身だと嘘をつき浮気、それがばれると家庭を捨てて女性と一緒に家を出ていく始末。そんな息子に、泥棒をしたらいけないから、とお金を渡すような、息子を溺愛する義母でした。
旦那が出て行ったのを機に、私はそこから今までの自分を反省し、姑に対する距離を自分から縮めようと決心しました。休みの日には旦那不在の中、毎週孫を連れて行き、片付けが得意でない義母の手伝いをして、関係を修復していきました。
義母は本当に片付けが出来ない人でした。もっとも辛かったのは、作った料理の鍋を放置して腐らせていたことです。それを放っておけない私は、腐って蛆が沸いた鍋や漬物の桶等を片付ける時が一番辛くて、なんでこんなことしないといけないんだろう?と泣きながら片付けたことも何度となくありました。
おまけに買い物依存症の義母は、訪問販売、宝石販売、テレビショッピング、着物販売、家電販売、布団販売であらゆるものを買いまくり、息子に高級車を買い与え、カードを渡して買い物をさせる、カードを何枚も作ってはキャッシングでお金を借りまくる。土地を担保にお金を借りることを繰り返して、自転車操業になっていきました。
とうとう資金繰りが上手くいかなくなり、義母はそのストレスからか、脳の血管が切れて入院。命はとりとめたものの、そこで借金が5000万も膨らんでいることが発覚しました。
義父もお金には無頓着で、総額どのくらい借りているか把握してなく、おまけに親戚の借金の保証人になり、借金を払えなくなった親戚の代わりに借金をかぶってしまったのです。担保に入っていた土地や畑は、借金の肩代わりに取られてしまいました。
義父は自営で建設業をしていましたが、ほどなくして年齢のために引退。引退した義父の後を継いだ旦那は仕事ができず、そのうち仕事の依頼も来なくなりました。
見栄張りで外面がよい旦那は、趣味の釣りやゴルフ、飲みにいくお金をサラ金で借りまくり、会社の支払いのお金にまで手をつけるようになっていました。
収入の目途が立たず、保険料が払えず食べるものにも困る毎日。保険証がなく、子供が病気をしても病院にも連れていけない…。保険証が作れるところで働こう。そう決意して、お給料が良かった消費者金融に就職しました。私自身が寝食を忘れ、身を粉にして働かなければならない状況でした。
働きずくめで夜遅くに仕事から帰ると、旦那の借りたサラ金会社の取り立てが家の前で待っているような毎日。それでも働かない旦那。相変わらず他の女性の匂い。
勝手に保証人にされたり、サラ金の取り立てを私に支払わせるよう仕向ける旦那…。私は頼る人もなく、身も心もボロボロになっていました。とうとう支払いが滞り、裁判所から家財の差し押さえが入りました。家財道具に赤紙を貼られ、洋服さえ取れない状況。とても惨めでした…。お金がない惨めさをたくさん味わい、暗闇の中をずっともがいてそこからなかなか抜け出せない、そんな感じでした。
また、旦那は自分に都合が悪いことを言うと、言葉よりも手が出る人でした。私はいつまた胸ぐらを掴まれたり、叩かれたり、蹴られたりされるか怖くてビクビクしていました。暴力を振るう人は、その時は見境がつかなくなります。みぞおちを殴られて息ができなくなったこともありました。
「お前が悪いからそんなことも手を出すんだ」
そんなことも言われました。途中から痛みの感覚も麻痺してきて、もういっそ殺してくれ、そんな風な気持ちになったこともありました。
一向に仕事をする気配もなく、借金を繰り返す旦那に信頼や信用を失くし、「もう このままではお互いが駄目になる…」と限界を感じて離婚を決意して3年後、調停にて離婚が成立しました。旦那から養育費の約束は、1度も果たされることはありませんでした。
「男なんて嘘つき」「信用ならない」「浮気をする生きもの」
私は、極度の“男性不信”そして、“男性恐怖症”に陥っていました。
離婚後も、義父母のところに時々、孫を連れて遊びに行くなどの交流は続けていました。
そして何年か経ったある日のこと。義母が「磨知子さん あんたもいっぱい苦労したね、次は幸せになりなさいね」って言ってくれたのです。
その頃の私は、元姑に対してはもうなにもわだかまりはなかったけれど、元夫にたいしてはまだ心のどこかに許せない感情がずっとありました。
不思議なもので、その言葉を聞いた途端 随分と石のように硬くなっていた元夫への気持ちがすーっと溶けていったのです。その言葉は元姑と嫁の関係ではなく、一人の女性として心から発してくれた言葉だったから。私の心が動き、気持ちが解けるように涙になって、返事が出来ないくらいの涙があふれました。
義母とも色々ありましたが よくしてもらったと感謝ばかりです。すでに亡くなりましたが、もう一度会いたいなと今でも思います。
子供を育てるため、お金を貯めて家を買うという目標のため、朝から夕方まで普通の事務よりもお給料が良かった消費者金融で働き、帰ってご飯の支度をして、夜のバイトに行き夜中まで働く日々を過ごしていました。「もう誰も信用できない…。頼れるのはお金だけ…」と思い、働きずくめの日々。
それでも お金が入ってこない不安定な生活から抜け出し、不安からは解消されました。
親権を一人づつ持つのが元夫の離婚時の条件で、その為 泣く泣く離ればなれに暮らしていた息子が、元夫の再婚をきっかけに 私のところに戻ってきました。息子と一緒に暮らせないことだけが、私の唯一の心残りでした。教会や神社に行くことがあれば神様に「どうか子供たちと3人で一緒に暮せる日が来ますように」と泣きながらお願いしていた私は、もう嬉しくて嬉しくて。「神様が願いを叶えてくれた!」と感謝と喜びの涙に変わった瞬間でした。
喜んだのも束の間、息子が家に来て数日後、元夫の再婚時期辺りから、実は学校に登校してないことが判明したのです。高校くらいは出ないと就職できないと将来を案じ、夜昼逆転していた息子を学校に無理やり連れて行こうとしました。その時は必死で無理やり起こし、先生や友達も毎朝迎えに来てくれて協力頂いたのですが、登校することが出来ず、私立に転校。
しかし 再入学したものの、1日も登校することはできなかったのです。通勤するJRの駅にいる登校中の高校生を見て、学校に行けない息子に焦りを覚えたのでした。死んだように布団の中でほぼ寝ている毎日。帰ってきてから私がまずすることは、息子が息をしているかどうかを確認することでした。
そこから夕飯を作り、夜のアルバイトに行き、夜中2時まで働く生活が続きました。夜昼働くことへの体力的な限界と子供の不登校…。心労と身体の酷使の両方が重なり、“閃輝暗点”という病気を引き起こしてしまい、先が見えない暗闇に途方に暮れながらも、色々なことを悟った日々でした。周りの人がうらやましく思え、なぜわたしばかりこんな目に合うんだろう?そんなことばかり考えていました。
そんな中、知り合いの子供さんが不登校になりました。ご両親は二人共教師で厳格だったため、大学に行くために勉強することを強いて、気持ちをおもんばかってやれずに、とうとう鉄道自殺という道を自ら選んだのでした。
その話を聞いてから、ハッと目が覚め、今までの自分を改めました。高校に行かないと将来がないと思っていたけれど、そんなのはどうでもいい。ただ生きてそばにいてくれているだけで、もう何も望まない。そう思ったのでした。
「きっと世の中には私と同じように苦しみや悲しみを背負っている女性がたくさんいるはず!私自身が、こんな人間でも人生を輝かせることができるって証明しよう!勇気を与えてあげれるような人生を生きたい!!」
そしてまた 自分の気持ちも少ずつ変化していったのです。ずっと元夫のことを恨んでいたけれど、いつまでもそこに気持ちを置いたままでは先に進めない。嫌なことは山ほどあったけれど、すべてが経験。私にも悪いところはあったはずだし、感謝することも沢山あったと気づきました。
そして「すべてを許そう」。そう思ったのでした。なによりも、私は健康で、健康な体さえあれば働ける それが一番ありがたいことで 感謝することではないのかと。
また「男性は嘘つきで信用ならない生きもの」「男性の力を借りなくても一人で生きていく」と誓っていた私…。
ですがある時フッと「そんな考え方しか出来ない私ってなんて不幸なんだろう」。それは偏った考え方なのだということに気づき かたくなな自分の考えを改めようと思いました。気づきがものの見方や考え方が変えてくれました。考えを改めてから後、ご縁があり再婚することになりました。再婚を機に夜の仕事も辞めることができました。
子供はそれから2年後に、6年間の長いニート生活から脱却し普通の生活に戻ることができました。
今度は働いていた会社が買収され、統廃合により否が応でも会社を辞めなくてはいけない状況になりました。しかし、この状況がまさに私に新たな挑戦へのきっかけをくれたのでした。
今まではやりたいと思いつつも、生活のために諦らめていたもの。秘めていた想い。それは、「人を癒し、元気づけるような…。そして、勇気づけるような…。ありがとうって言ってもらえ、その人がまた一歩幸せに近づける、そんな仕事がしたい…」。私が本当にしたかったこと、それは“人を癒す””ありがとう”って言ってもらえるお仕事でした。
そして選んだのが女性を癒やし、美しくするマッサージやエステのお仕事。私は夢中で勉強し、マッサージやエステの資格を取りました。凄く楽しかった!「仕事=辛い」と思い込んでいた私…。人生でこんなにも楽しい仕事があるのだと知りました。
右も左もわからないまま、自宅サロンからのスタート。初めはお客様もいないので、自作のチラシをまいたり、知り合いに頭を下げて安く受けてもらったり、とにかく多くの方に施術を受けてもらい経験を積みました。
そんな日々の中、ネットを見ていると“小顔コルギ”という美容法が目に飛び込んできました。そして、福岡ではまだ誰もやっていないという状況。直感的に「コレだ!」と確信し、その日は興奮して寝れませんでした。
関西に何泊も泊まり込みで技術を習得。それを50時間繰り返して講師資格をとりました。この資格の取得を機に北九州の一等地である、小倉駅近くにサロンを構えることに決めたのです。
疲労とプレッシャーで押し潰されそうな毎日そんな私を勇気づけ、支えてくれたのは“お客様の言葉”でした。そこからは怒涛の日々が訪れます。もともとサロンで働いた経験もなく、接客の勉強も、経営の勉強も、集客の勉強もしたことがない全てが手探り状態。
また、自宅サロンと違い、家賃や経費を捻出しなければ、一瞬で赤字が膨らんでしまします。時間があればチラシを配り、高額な情報誌に掲載し、ホームページを作ったり、ブログを立ち上げたり…。どれも想像以上に大変なことばかり。毎日が疲労と不安やプレッシャーとの戦いでした。元々、人としゃべるのが苦手で、営業の経験なんてなかった私です。そんな私を支えてくれたのは
「すごく気持ちよかったよ!」
「身体がスッキリした!」
「すごく癒されました!」
「顔のたるみが消えて若返った!」
「むくみがとれて顔がスッキリした!」
「あごのラインがシャープになって。目が大きくなった!」
少しずつ増える、お客様からの喜びの声。そして、「磨知子さんのエステを受けて人生が変わったよ!」そんな、感謝の言葉でした。
その言葉だけで、心身の疲労は一瞬で吹き飛び、私を勇気づけてくれ、やりがいと生きがいを与えてくれました。そして気づけば一番長いお仕事になっていました。本当にあっという間でした。
これは私の力なんかではなく、“おかげ様”心からそう思います。大好きな仕事に恵まれ、24時間仕事をしてもいいくらい「この仕事が好きだ!」と思いました。好きなことでお仕事させていただける幸せ。本当にありがたいことです。
虐待、貧乏、自閉症、いじめ、人間不信、対人恐怖症、多額の借金…。すべてにおいて自信もなく、自己評価も低く、他人とどう関わっていいかがわからない…。今まで褒められたこともなかったため、褒められてもそれを素直に受け入れることすらできない私。そんな、過去の人生に卑屈な感情しかなかった私が今、“幸せ”だと感じられるのです。このお仕事をすることで、私の中にさらに大きな“感謝と自信”が生れたのです。
地域の施設からの講演の依頼など、昔の自分だったら「絶対に無理!」と怖くて逃げていたようなことでも「このお話が来たということは、もしかしたら成長できるチャンスかもしれない!失敗してもいい、とにかくやってみよう!」そんな風に前向きに考えられるようになりました。
そして、そのことが少しずつ自信につながっていきました。市民センターや家庭教育学級で講座の依頼をされるようになり活動の場が増えていきました。人と話すことさえできなかった私が、大勢の前でお話しをしているのが不思議な感じです。
そして気づいたことがあります。それは「私自身が人生を選択していた」ということ。人間不信だった私は、私自身がそのような出会いや悪い環境を引き寄せていたのだと。「このままではダメだ!変わらなきゃ!」そう決意し、挑戦することを決めた私。
この仕事を通じて“幸せ”と“感謝”を感じ得た私。私が変わることで、関わっていただく方々や環境がガラリと変わりました。想像もしなかったようなチャンスが舞い込んできました。
「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」
今、そう心から確信しています。そして、このサロンに込めた信念と想い。
”お客様の癒しの時間、空間でありたい”
お顔や身体はもちろん、心まですっきりしたり、美しくなったり、「明日からまた頑張ろう!」そんなふうに明るく前向きな気持ちになったり、人生に気づきが生まれたり、気持ちを切り替えられたり、トラウマや過去の傷が解消されたり…。
身体も心も“美しく変われるサロン”美しくなれるのはもちろん、通うだけでお客様が“幸せ”に近づいていけるサロン。『あなたの人生が輝き出すサロン』でありたい。そんな願いを込めて、これからも輝きの輪を広げて歩み続けたいと思っています。
こんな私だからこそ、今、自信をもってあなたに伝えられること。私は、このような“私の過去”の話を自らすることはほとんどありませんでした。むしろ、そんな自分であったことを、できるだけ隠して生きていきたいと思っていました。
ある日のこと、施術の後のアフターカウンセリングで、お客様の深刻な悩みを相談されたことがありました。気づくと、私は私自身の過去の話をしていました。気の利いたアドバイスもしていません。
ただ、今回ここでお話したように、私のみじめでお恥ずかしい過去の話をしただけ。それなのにそのお客様の表情がどんどん変わっていったのです。どんよりと曇っていた目が爛々と輝きだし、表情が明るくなっていきました。そして、
「私、磨知子さんみたいになりたいです!磨知子さんを目指します!」
これには思わず照れてしまいました。まさかこんな反応がいただけるなんて、思ってもいませんでしたので…。
だけど、その時に感じたんです。こんな私だからこそ、なにか伝えられること。勇気づけてあげられることがあるのかもしれない。そして、これだけは自信を持って言えること。
“人は変われるということ”
私はまだ上手く話すことは苦手ですし、天然の性格は治らず、はずかしい失敗は絶えませんが…、あの頃の私からすれば、ずいぶんと変わりました。女性は美しくなり、5歳若く見られるだけで人生が輝き出します。
今抱えている、お顔や肌や体型の悩み“美”に対してのコンプレックスを解消するだけで、人生を変えるきっかけになります。お仕事も、家事も、お出かけすることも、洋服選びも、お化粧も、人に会うことも…、今まで当たり前のように思えていた日常ですら楽しく輝きだします。
それは、特別なことなんかじゃありません。それは 本来「あなたらしい“あなた”」なのです。
そして、そんなあなたには、また更に素晴らしい“出会い”や“”幸せ”が訪れる。なぜなら、“あなたらしさ”こそ、幸せを引き寄せる磁石だからです。
私は今までそのようなお客様をたくさん見てきました。
「あなたらしい“美しさ”を手に入れる」
勇気を出して一歩踏み出した時、あなたの人生は輝き始めます。あなた自身が“自分らしく、心から望む本質的な幸せ”を手に入れるささやかながらでも そのお手伝いができれば嬉しく思います。
長文を最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
フェアリーテ・マチルダ 佐藤 磨知子
【その他の資格】
【地域貢献活動】
各施設や学校・幼稚園からのご依頼を受け、“リンパマッサージ”や”腸内セラピー”など、
“美と健康”に関する講座の講師をさせていただいております。